yatata-dankeiのブログ

niconicoから放り出されたオジサンの迷走

お猫様クロニクル

最初の猫は爺ちゃんちの納屋で生まれた子猫だった。僕が三歳くらいの頃。明治生まれの爺ちゃんと婆ちゃんが現役で農業を営んでいた時代だ。牛小屋のある納屋の藁の中で、半野良のように飼われていた白黒の猫が子猫を生む。それを玩具代わりに孫に与えたのだ。もう、薄っすらとしか覚えていないが、母の話ではニャー、ニャー啼く子猫の首を掴んで庭で遊んでいたそうである。今なら頭を抱えて、放せと言うところだが、当時は自分が何をやっているのか、判るはずもなかった。
 
 小学生になると、隠居に住む雌猫がいた。祖父の使っていた消毒液の名前から、チンキと呼ばれていた。キジトラの細身の老猫だった。
 台所に立つ祖母の絣のモンペの足元に寄り、欠けた茶碗に残飯を分けてもらうのが日常。隠居は昭和の造りで、土間と茶の間を区切るのは擦りガラス入りの障子戸しかなかった。チンキはその障子の一か所を突き破って通り道を作って、ジャンプして戸外と内を出入りしていた。

 昭和の田舎の猫の飼い方なので、サザエさん方式で、餌をやる以外に特に世話というものをやらないスタイルだった。当時はこれ以外の飼い方を知らないので、平成から令和の今のように、屋外に出ないように配慮し、猫砂に用を足すように躾けることも考えが及ばないものだった。
 
 小学生の男の子には、猫は好奇心の対象ではあっても、可愛がるという付き合い方は思いつかない。チャンスと気まぐれで何とか捕まえようと障子を締め切って追いかけまわした。捕らえたら髭を引っ張ってみたり、足の爪を出したり引っ込めたり。顔を正面から覗き込んだら,啼いた拍子に嗅いだ口が味噌汁臭かった。
 
 しかし、僕が成長して餌付けを覚えると、この関係は変化した。パンの食べ残しやらを与え始めると、猫のほうも現金なもので近寄っても逃げなくなり、むしろ足元に寄って来ることさえあった。
 そのチンキも小六の夏に不意に姿を消した。祖母は山の中で死んだのだろうといった。そんなものか、と思いつつも一抹の寂しさを覚えた。