yatata-dankeiのブログ

niconicoから放り出されたオジサンの迷走

キメラ記憶の病院 2

 中年の看護士の手引きで通された部屋は十畳くらいか。簡素な事務机の前に白髪の医師が座っている。その横顔を凝視しながら黒の丸椅子に腰を下ろす。さすがに代替わりしているのだろうか。まさか現役でまだ医者を?

 と,ミミズのような文字を書いていたペンを置いて医師が振り向いた。
「今日はどうされました?」
黄色い歯に深く刻まれた口元の皺。真っ白く垂れ下がった眉の下の眼はネズミか何かのように円らに光っていた。僕が鼻の症状を訴えると,印象と違ってしっかりした動作で両の鼻の穴にへらを差し込んでライトで照らした。スプレーで消毒すると,今度は長い管を鼻腔奥に潜らせて吸引をした。白い汁が両の穴から音と共に吸い出される。両手で耳の外側下を触診される。そして喉を覗かれると医師の黒い目が細くなった。
「だいぶ大きくなってますね。いつもですか?」
僕の扁桃腺は胡桃の実のように肥大している。ハイ,と云うと,医師はレントゲンの指示を看護士に出した。一旦診察室を出て廊下の向かいにある部屋に連れ出される。荷物を籠に置いて頭より少し高い白い機械の前に立たされた。

 レントゲンの画像はすぐに机の前に貼られた。
「真っ白やね」
「真っ白くなってますか」
そりゃ,そうだろう。行きつけの耳鼻科では,ここら辺の遣り取りはもう省かれている。
「ほら,これ・・・」
鼻を中心に眉間から両目の下まで,白い影でぼやけたところをクルリと囲う。
「副鼻腔が広く糜爛しています」
再び机の上のカルテにペンを走らせた老人は,ふと,手を止めた。

「あれ,香田さんとこのヨーチャン?」
「え,あー,はい」
ちょっと,どぎまぎすると,先生は破顔一笑した。
「おっきくなったな。昔,麻疹で家に往診したな。お母さんお元気?」
僕は瞼に蘇った子供部屋の天井と橙色の電灯を見上げた光景と一緒に,母の入っている白い建物を思い浮かべた。
「はあ,病院にずっと入ってます。足が立たなくなって・・・」
「あー,そう・・・」
ペンを持ったまま,先生は一寸垂れた瞼の下の視線を落とした。
「それは残念だったね。お元気かと思っていたが・・・。フーン」
先生は暫く物思いに沈んだようだった。が,やがて僕の顔に目線を向けた。
「じゃあ,処置しますね。麻酔と吸引,消毒の準備を」
そう云うと,先生は看護士に指で合図した。

 看護士の手から小さめの注射器を受け取った先生は,いきなり鼻の脇に針を近づけた。
「チクッとします」
左右の目の下に麻酔をしたあと,先生の手にメスが握られているのを見て僕は驚いた。
「あの・・・」
「ちょっと切開して薬塗りますね」
えっ,切開って,何処を?
鼻の周りを指で押さえて麻酔の効きを確認した先生は手慣れたもので,さっと鼻梁にメスを入れた。赤い血が流れるのも構わず先生は鼻から両眼の下の頬まで顔の皮を開いていく。
待って,と言う間もなく,鼻の奥にヒンヤリした空気が触れた。看護士は無言のまま流血を吸引する。ぺろん,と顔の表面が剥けてしまった。皮は口の上で繋がって垂れ下がり,僕は緊張して全身が固まっている。目で訴えると,先生はにっこりと笑った。
「大丈夫だから。動かないで」
いや,しかし。

 出血が治まると,今度は真っ赤に腫れた鼻腔にまとわりつく鼻汁を吸引しだした。眉間奥から左右鼻の穴。更には目の下まで赤い血混じりの白濁した,所々には黄色がかった粘液が透明の管を通ッて吸い出されていく。

 管を置いた先生の手には金属のスプレーが握られた。冷たい感触の薬液をスプレーで吹きつけていく。炭が入っていたような熱っぽい腫れを冷ます白い噴霧。生鮮な空気が一日ぶりに鼻の穴を抜けていく。最後に白い塗り薬を塗布していく。そのまま垂れた皮を摘み上げた。そっと元の鼻の上に皮を戻していく。指で押さえながらバンソーコーを何カ所か貼って固定できたようだ。
「ハイ,終わりましたよ」
ほんとかよ。僕はジッと鏡に映る自分の顔の筋を探った。
「あんまり激しい運動はしないでください。鼻のまわりを強く擦るのも駄目です」
「えー,ほんとに大丈夫なんで?くっついてます?」
指で触れるのが,ちと怖い。先生はダイジョーブ,ダイジョーブ,とまた笑った。
「強めの抗生剤出しときますね。お大事に」
椅子を立とうとした僕の横顔に先生はあっ,と声を上げた。
「ヨーチャン,鼻くそほじってない?」
うっ,よく御存知で。
「駄目だよ,傷が付くし,バイ菌をなすりつけているようなもんだ。やめといたほうがいいよ」
僕は有り難う御座いました,と言って診察室を後にした。

 驚いたのが,薬を受け付けで渡されたことだった。トスフロキサシンにイブプロフェンとカルボシステイン。更にはモンテルカストの錠剤もつけてもらっていた。二週間分の量が入っているという説明を受けた。僕は外付け薬局無いのかな,と不審も感じたが五千円足らずのお金を支払って玄関を出た。

 家に帰り着いたのは昼過ぎだったので,そのまま昼食の後にさっそく薬を服用した。そのまま,家人が帰って来た夕方まで眠っていたが,起きたときに鼻水で鼻が塞がっていなかった。だいたい,病院での吸引から三時間も経つと,再び鼻が詰まって目が覚めるものなのだが,今回は鼻が通ったままだった。妻は僕の鼻のまわりのバンソーコーを見て怪訝そうに尋ねてきた。僕はされたままを話したが,妻は半信半疑のようだった。
「普通,鼻切らないよね。本当だったら怖いわ」
いや,そうだろうけど。うん,僕もあの治療は今思い返しても異様だったと思う。懐かしい先生との再会に心が浮かれていたのだろうか。じろじろと鼻を見た妻は,首を捻ってキッチンに戻って行った。

 翌日には扁桃腺の痛みも引いて,だいぶ楽になった。一番苦痛だった鼻水も,あれから一回も鼻を塞ぐことなく,快適に鼻呼吸できていた。一週間もすると,薬を飲むのも忘れるくらいに回復していた。そして鼻の皮が剥がれて落ちてくるという恐怖の場面も無く,皮と鼻は無事にくっついてくれたようだ。

 その後,鼻と扁桃腺が再び腫れたとき,十時医院を訪ねようとしたが,今度は街路樹の向こうに看板を見つけることが出来ないかった。携帯で検索して調べてみても,地図上にヒットもしないのだ。おかしい,そうだ,電話帳。家の電話帳を調べたが,と行に十時医院の名は無かった。そういや,診察券も何もくれなかったな。
首を傾げながら,僕はバスを降りた停留所に再び降りてみた。しかし,車内の窓からと同様,十時医院のトタン看板を目にすることは出来なかった。あの酒屋へと続く曲がり角は何処に行ったのだろう。電柱の青く色褪せたポスターを横目に,僕は前後に続く通りの風景に途方に暮れた。

しかし、先生の言うとおり、鼻をほじる癖を我慢するようになってからは、鼻を腫らす回数が減ったものである。


終わり


 キメラ記憶とは僕が創った造語で,昔の体験の記憶にTV番組,映画,あるいは本で読んで想像した場面などがごちゃまぜになった記憶の事だ。何故こんなことを書くのかというと,「それでも町は廻っている」(石黒正数)の11巻,84話夕闇の町に出てくる針原さんの二度と行けない空き地の話に,
「あー,僕もあったなぁ,二度と行けない病院ってのが」
と思い出したからだ。僕の場合,その病院に親に連れられて知人を見舞いに行った筈なのだった。だが,自分の頭の中での病院へ通ずる道に入る曲がり角が,病院のあったとされる場所と全然離れた場所になっている。しかも,病院の場所と記憶されていた所には小さな公園こそあれ,病院が建っていたフシも無い。どうも,他の記憶と混同しているらしい。

その二度と行けない病院に,何の因果かたどり着いて,蓄膿症持ち垂涎の治療を施してもらう。そんな話を書いてみた。蓄膿症の酷いときって,鼻を切開して鼻汁全部吸い出してもらいたくありません?