yatata-dankeiのブログ

niconicoから放り出されたオジサンの迷走

キメラ記憶の病院 2

 中年の看護士の手引きで通された部屋は十畳くらいか。簡素な事務机の前に白髪の医師が座っている。その横顔を凝視しながら黒の丸椅子に腰を下ろす。さすがに代替わりしているのだろうか。まさか現役でまだ医者を?

 と,ミミズのような文字を書いていたペンを置いて医師が振り向いた。
「今日はどうされました?」
黄色い歯に深く刻まれた口元の皺。真っ白く垂れ下がった眉の下の眼はネズミか何かのように円らに光っていた。僕が鼻の症状を訴えると,印象と違ってしっかりした動作で両の鼻の穴にへらを差し込んでライトで照らした。スプレーで消毒すると,今度は長い管を鼻腔奥に潜らせて吸引をした。白い汁が両の穴から音と共に吸い出される。両手で耳の外側下を触診される。そして喉を覗かれると医師の黒い目が細くなった。
「だいぶ大きくなってますね。いつもですか?」
僕の扁桃腺は胡桃の実のように肥大している。ハイ,と云うと,医師はレントゲンの指示を看護士に出した。一旦診察室を出て廊下の向かいにある部屋に連れ出される。荷物を籠に置いて頭より少し高い白い機械の前に立たされた。

 レントゲンの画像はすぐに机の前に貼られた。
「真っ白やね」
「真っ白くなってますか」
そりゃ,そうだろう。行きつけの耳鼻科では,ここら辺の遣り取りはもう省かれている。
「ほら,これ・・・」
鼻を中心に眉間から両目の下まで,白い影でぼやけたところをクルリと囲う。
「副鼻腔が広く糜爛しています」
再び机の上のカルテにペンを走らせた老人は,ふと,手を止めた。

「あれ,香田さんとこのヨーチャン?」
「え,あー,はい」
ちょっと,どぎまぎすると,先生は破顔一笑した。
「おっきくなったな。昔,麻疹で家に往診したな。お母さんお元気?」
僕は瞼に蘇った子供部屋の天井と橙色の電灯を見上げた光景と一緒に,母の入っている白い建物を思い浮かべた。
「はあ,病院にずっと入ってます。足が立たなくなって・・・」
「あー,そう・・・」
ペンを持ったまま,先生は一寸垂れた瞼の下の視線を落とした。
「それは残念だったね。お元気かと思っていたが・・・。フーン」
先生は暫く物思いに沈んだようだった。が,やがて僕の顔に目線を向けた。
「じゃあ,処置しますね。麻酔と吸引,消毒の準備を」
そう云うと,先生は看護士に指で合図した。

 看護士の手から小さめの注射器を受け取った先生は,いきなり鼻の脇に針を近づけた。
「チクッとします」
左右の目の下に麻酔をしたあと,先生の手にメスが握られているのを見て僕は驚いた。
「あの・・・」
「ちょっと切開して薬塗りますね」
えっ,切開って,何処を?
鼻の周りを指で押さえて麻酔の効きを確認した先生は手慣れたもので,さっと鼻梁にメスを入れた。赤い血が流れるのも構わず先生は鼻から両眼の下の頬まで顔の皮を開いていく。
待って,と言う間もなく,鼻の奥にヒンヤリした空気が触れた。看護士は無言のまま流血を吸引する。ぺろん,と顔の表面が剥けてしまった。皮は口の上で繋がって垂れ下がり,僕は緊張して全身が固まっている。目で訴えると,先生はにっこりと笑った。
「大丈夫だから。動かないで」
いや,しかし。

 出血が治まると,今度は真っ赤に腫れた鼻腔にまとわりつく鼻汁を吸引しだした。眉間奥から左右鼻の穴。更には目の下まで赤い血混じりの白濁した,所々には黄色がかった粘液が透明の管を通ッて吸い出されていく。

 管を置いた先生の手には金属のスプレーが握られた。冷たい感触の薬液をスプレーで吹きつけていく。炭が入っていたような熱っぽい腫れを冷ます白い噴霧。生鮮な空気が一日ぶりに鼻の穴を抜けていく。最後に白い塗り薬を塗布していく。そのまま垂れた皮を摘み上げた。そっと元の鼻の上に皮を戻していく。指で押さえながらバンソーコーを何カ所か貼って固定できたようだ。
「ハイ,終わりましたよ」
ほんとかよ。僕はジッと鏡に映る自分の顔の筋を探った。
「あんまり激しい運動はしないでください。鼻のまわりを強く擦るのも駄目です」
「えー,ほんとに大丈夫なんで?くっついてます?」
指で触れるのが,ちと怖い。先生はダイジョーブ,ダイジョーブ,とまた笑った。
「強めの抗生剤出しときますね。お大事に」
椅子を立とうとした僕の横顔に先生はあっ,と声を上げた。
「ヨーチャン,鼻くそほじってない?」
うっ,よく御存知で。
「駄目だよ,傷が付くし,バイ菌をなすりつけているようなもんだ。やめといたほうがいいよ」
僕は有り難う御座いました,と言って診察室を後にした。

 驚いたのが,薬を受け付けで渡されたことだった。トスフロキサシンにイブプロフェンとカルボシステイン。更にはモンテルカストの錠剤もつけてもらっていた。二週間分の量が入っているという説明を受けた。僕は外付け薬局無いのかな,と不審も感じたが五千円足らずのお金を支払って玄関を出た。

 家に帰り着いたのは昼過ぎだったので,そのまま昼食の後にさっそく薬を服用した。そのまま,家人が帰って来た夕方まで眠っていたが,起きたときに鼻水で鼻が塞がっていなかった。だいたい,病院での吸引から三時間も経つと,再び鼻が詰まって目が覚めるものなのだが,今回は鼻が通ったままだった。妻は僕の鼻のまわりのバンソーコーを見て怪訝そうに尋ねてきた。僕はされたままを話したが,妻は半信半疑のようだった。
「普通,鼻切らないよね。本当だったら怖いわ」
いや,そうだろうけど。うん,僕もあの治療は今思い返しても異様だったと思う。懐かしい先生との再会に心が浮かれていたのだろうか。じろじろと鼻を見た妻は,首を捻ってキッチンに戻って行った。

 翌日には扁桃腺の痛みも引いて,だいぶ楽になった。一番苦痛だった鼻水も,あれから一回も鼻を塞ぐことなく,快適に鼻呼吸できていた。一週間もすると,薬を飲むのも忘れるくらいに回復していた。そして鼻の皮が剥がれて落ちてくるという恐怖の場面も無く,皮と鼻は無事にくっついてくれたようだ。

 その後,鼻と扁桃腺が再び腫れたとき,十時医院を訪ねようとしたが,今度は街路樹の向こうに看板を見つけることが出来ないかった。携帯で検索して調べてみても,地図上にヒットもしないのだ。おかしい,そうだ,電話帳。家の電話帳を調べたが,と行に十時医院の名は無かった。そういや,診察券も何もくれなかったな。
首を傾げながら,僕はバスを降りた停留所に再び降りてみた。しかし,車内の窓からと同様,十時医院のトタン看板を目にすることは出来なかった。あの酒屋へと続く曲がり角は何処に行ったのだろう。電柱の青く色褪せたポスターを横目に,僕は前後に続く通りの風景に途方に暮れた。

しかし、先生の言うとおり、鼻をほじる癖を我慢するようになってからは、鼻を腫らす回数が減ったものである。


終わり


 キメラ記憶とは僕が創った造語で,昔の体験の記憶にTV番組,映画,あるいは本で読んで想像した場面などがごちゃまぜになった記憶の事だ。何故こんなことを書くのかというと,「それでも町は廻っている」(石黒正数)の11巻,84話夕闇の町に出てくる針原さんの二度と行けない空き地の話に,
「あー,僕もあったなぁ,二度と行けない病院ってのが」
と思い出したからだ。僕の場合,その病院に親に連れられて知人を見舞いに行った筈なのだった。だが,自分の頭の中での病院へ通ずる道に入る曲がり角が,病院のあったとされる場所と全然離れた場所になっている。しかも,病院の場所と記憶されていた所には小さな公園こそあれ,病院が建っていたフシも無い。どうも,他の記憶と混同しているらしい。

その二度と行けない病院に,何の因果かたどり着いて,蓄膿症持ち垂涎の治療を施してもらう。そんな話を書いてみた。蓄膿症の酷いときって,鼻を切開して鼻汁全部吸い出してもらいたくありません?


キメラ記憶の病院


 畜生,あのヤブ医者め。あいつは知らないだろうが,こっちは自分を40年やってるんだ。何度も経験した喉の不快な違和感。故に仕事と家庭の合間の時間を割いて,わざわざ病院に来たのに。おまけに診察の後にはお金まで払うんだぞ。なけなしの時間とお金使って,遊びに来るわけが無い。なにが,呆れ顔からの
「香田さん,困りますね」
だ。優秀な彼にとって軽い症状でしかない僕は,治療する価値が無いらしい。腫れが無いからと,アレルギーとか診断して肝心の抗生剤も出しやがらねぇ。

 おかげで翌朝は扁桃腺が真っ赤っか。唾を飲み込むたびに走る痛みで目を覚ます羽目となった。
鼻づまりは,最初の透明な水のような液体が鼻の穴から垂れてくるのを通り越して,左から,そして右まで詰まってしまった。ティッシュを二枚重ねて鼻を咬むと,白濁した粘液がドロリと出ている。頭はボンヤリ。視界は鈍くボヤけて全身が重だるい。 会社には休みの連絡を取った。子供と嫁を送り出して平日の家に独り残った。
 
 さて,どうしよう。アレルギーの薬では気休めにもならない。喉を洗面台の鏡に向けて大きく口を開けてみると,胡桃の実のような扁桃腺が紫に爛れて両側から覗いていた。コレハ駄目ダ。売薬では足らぬ。どこか病院でイブプロフェンと抗生剤とカルボシステインの三点セットを処方してもらわねば。鼻を中心とした顔の中央部が重い痛みに下へと落ちそうだ。僕はバスに乗って住宅街から市街地へと向かった。当然,最初に行ったヤブ医者の所に行くつもりは無い。なら,医師会病院くらいか。

 普段は乗らない平日の午前のバス。頭を窓に預けて薄目で街路樹と対向車の流れを眺めていた。左上の歯茎が痛痒い。カチカチと歯を鳴らして痛みを確かめながら,赤く腫れた副鼻腔の状況を想像していた。
 ふと,ある看板が目に留まった。十時医院。ぱっ,と古い記憶が蘇ってきた。熱に顔を紅く染めた幼い僕が母にタクシーで連れられてきた病院。まだ,あったとは。 節々の痛みに耐えながら次の停留所で降りた。看板のある角を曲がって奥へと入ると酒屋を通りすぎてその先に見覚えのあるセメントの門が見えた。

 昭和の古い造りの木造の建屋と自動ドアにさえなっていない正面玄関の扉。ガラスに金の明朝体で十時医院と塗ってある。もうちょっと駐車場も広く取ればいいのに。子供の頃と同じ感想を抱きながら木製の扉の把手を手前に引いた。
 入ったら直ぐに受け付けのカウンターが有り,太った女の看護士が何か書き物をしている手を止めた。
「おはようございます。どうされました?」
保険証を出しながら,微熱と鼻づまりと喉の痛みを訴えた。症状を書き込む紙と体温計を渡される。36・9度と身体の簡略図の鼻と口に丸印を付ける。昨夜から痛む,と。

 明るい東南の陽差しが黒革の長椅子を白く浮かび上がらせた。腰掛けるとブラウン管の小さなTVの画面が明滅している。地元タレントが地元の商店を紹介する番組。壁は黴の跡があってみすぼらしい。目を移した先の薄暗く狭い廊下の壁にハッとなった。医学標本だ。何の標本か子供心に判らなかったが,黒や緑,さらには青い犬の糞のような塊が12個か15個くらい並んでいる。何かの病変の標本らしい。40年以上経って改めて見てみると,やはり異様なものだ。木枠の上に小さく題名の紙が貼ってあるが,字が潰れてしまって読めない。目を凝らしていると,奥の扉がガラガラと開いた。
「香田さん,どうぞ」


信長の野望烈風伝 ルックカルテの唄

 29分10秒に入る曲。いくつもある支城を攻めるルーチンワークのお供によく聞くBGM。あー,めんどくさい。早く門壊せや,渋滞しとるし、と気だるいプレーを思い出す音楽。しかし,このコメを見た瞬間,脳天直撃だった。もう,この歌詞以外に聞こえない。本当にこういう発想出来る人を羨ましく思う。なんだろうね, 音というかメロディーラインを言語化する能力というのか。

 カラスの鳴き声をカァ-,と言ったり,鶏の声をコケコッコーと言うか,クックドゥードゥルドゥーと聞くか。洋の東西で違ったりして、ここら辺の耳のセンスというか,言語の違いかわからんが,擬音の表現も連想されて趣深かった。

 最初に将星録をやりだしてから,革新が出るまでは烈風伝が最もプレー時間が長いノプヤボだった。箱庭方式は自分に合っていて,あちこちに支城を建て,名前を覚えていったりしていた。羽衣石城とか虚空蔵山城とかはここら辺で目にした。ゲーム性そのものはコンピューターの思考がおとなし過ぎてプレイヤーの作業ゲーの面が強いのだが。城ごとの資金と兵糧の生産力が比較出来るので,その数字を如何に上げるかで区画をいじりまわしたり,支城の区域を確認して工夫することに悦びを感じる質の僕は,この戦国絵巻の世界に浸って飽くことを知らなかった。細かいことだが、ショートシナリオをクリアし続けるのも面白いが、剣豪集めイベントは、出奔を招くので避けたりしていた。

 コーエー歴史シミュレーションのアテとしては大河ドラマが鉄板。戦国三英傑から地方の雄毛利氏,伊達氏,武田氏,上杉氏等枚挙にいとまないお歴々が毎年のように出て来なさる。古くは滝田栄徳川家康、新しいほうでは真田丸あたりか。信長のイメージは役所広司さん。家康は徳川内府としては中村梅之助さんが好み。
僕の一番のアテは黒沢明の「影武者」で,信玄死後の長篠の戦いのシナリオをよくやる。革新では、武田四名臣が死なないうちに徳川を滅ぼし,せめて清洲までは織田を攻めていないと苦しくなる。しかし,真田昌幸の後塵を拝す四名臣の姿にナンカチガウ,と当惑する場合も多々ある。

 革新以後のシリーズは残念ながら手を出し切れていない。子供が出来ると決定的に時間が無くなってしまうので,新作のプレー感を一から覚えるのがつらい。そうなると,ゲーム性の高い,何度でも遊べる革新でイイジャンと暇を見つけてはチョコチョコやったりする。



あんた疲れてない?最近クラシック聴いてるし

 僕がクラシックを聴くのは映画アマデウスの影響だ。だからモーツァルトばかり聴いていた。十代,周りは当然jポップを聴いているのがほとんど。僕はそこら辺の会話に全く入っていけないから,ますますだんまりになるという寸法。

 しけた面して頭の中では交響曲25番とか,魔笛の夜の女王のアリアとかを延々脳内再生させていたから,周りからは何を考えているのかわからん奴扱いだった。自分の世界に浸って喋らんし,他人をめんどくさいと思っているような男だった。確かに他の人から見れば,めんどくさい奴だ。

 ホグウッド先生の交響曲40番と41番
一番聴いているのはこの曲。新しい感動を求めてベートーベンやらバッハやらメンデルスゾーンやらを聴いてきたが,最後にはこの2曲に帰って来てしまう。更に違う指揮者のものも,なんか違う,コレジャナイ,となってしまう。どうもこだわりが強い発達障害の気でもあるのか。最初に聴いていたのと違う部分が気になってしまう。

僕のモーツァルト遍歴は1991年の没後200年記念が主になっている。NHKFMなんかでずっと午後の2時くらいの時間からのクラシックの時間に延々とモーツァルトが流れていた。交響曲を1番から41番まで順に流したり,12月5日の死亡した日にはちゃんとレクイエムが流されたりしていた。その直前にはモーツァルト死の真相に迫る,なんて謳ったラジオドラマが挟まれたりして,後世の評価が高くても,わざわざ一作曲家なんか殺したりせんだろ,と独り突っ込みをいれたりしていた。当時ラジオコンポのスピーカーからの音源にずっと耳を傾け,録音したテープは40本くらいになったか。まあ,今では全て延びて聴けなくなってしまったが。

交響曲では,35番のハフナーとか39番も好きだったり,ピアノ協奏曲では27番や20番より26番戴冠式が好みだ。宗教曲ではジョン・エリオット・ガーディナー指揮の大ミサのグロリアとか何回も聴きます。

車の中で聴いていた時にはさすがに嫁に引かれ,
「始めてだわ」
と呆れられたりしました。そんなこんなで,普段は節操無くいろんなJPOPを聞き流してますけど,何か疲れたりすると音の故郷に還るようで,題名のような事を言われたりもしてます。あと,最近のマイブームはバッハの管弦楽組曲なんかです。



誰が東京オリンピックを殺すのか?

 今回の東京オリンピックは異例づくしの開催となった。無観客の会場。せめて一万人くらいはとも僕は考えたが,東京の新型コロナ感染者数3000人超えと緊急事態宣言は無観客でなければ野党やマスコミの批判で炎上の事態を招きかねなかった。

 それでも,各国のアスリート達の連日の熱戦は驚きと感動と落胆とで職場でも話題になっていた。日本は柔道で金メダルラッシュ。卓球でもまさかの中国を破っての混合ダブルスの金。女子ソフトボールも金メダル。こうしたなかで,僕も全く知らない名前の外国の選手のパフォーマンスに一喜一憂。子供たちと一緒に
「あ,中国の選手尻餅着いちゃった」
とか観戦。コロナ感染の拡がる状況下で,必要最低限の規模のコンパクトオリンピックとならざるを得なかったのは残念だが,TV中継や動画配信での選手の応援などは現状出来るギリギリの線だったのだろう。

 しかし,開催前からアンチ東京オリンピックの人たちの行動は常軌を逸していたと思う。池江璃花子選手への出場辞退の声明を求める要求などは,
「これを選手に言わせるのか?」
と怒りが沸いた。
この手の人たちは自分達の意見が正しく,同意しないその他大勢は衆愚であるという態度で毎度恐れ入る。受け入れられないのは,大衆への主張の周知が足らないだけで,拒否されてることを認知出来ないようだ。

 マスコミはまあ,いつもの調子だったね。オリンピックを止めろという社説まで出してしまった某新聞社などは,さすがです。昔,日本を評して経済一流,政治三流なんて言ってましたけど,僕は密かに経済二流,政治三流,マスコミ第五列と思ってます。
挙げ句,社説など知らぬ顔でオリンピック報道をしているとか。ま,読まないし,系列のTVも観ないけど。ほんと胸くそ悪くなる悪だわ。

 アスリート達への誹謗中傷も驚いた。しかし,今どきあり得る事だ。江戸の敵を長崎で討つ,じゃないか。競技に負けたらネットで攻撃とは,せこい。勝っても負けても相手への敬意を失わない高潔さをこういう人たちに求めるのは所詮無駄でしょうか。悪意を持つ人たちは一定数はいて,そのつもりで備えをしておくのが,一番ダメージが少ないのでしょう。

 普段からネットに不用意に繋がっているが,もう,モニターの向こうには,人種,性別,年齢,国籍,教育内容等一切不明の闇から,プロパガンダ込みの悪意の実弾が言葉となって飛んでくる。我々はプロパガンダ最前線の真っ只中にいつの間にか放り込まれていることを,自覚しておいた方がよさそうだ。


東方昭和伝 6月26日午前0時と7月5日午前0時の攻防

密かに息子が,小学校高学年になったら観せたいと思っている。僕自身は東方をあまり知らないので,敷居が高かったのだが,昭和を俯瞰的に知ることができる動画として追ってはいた。これは私見だが,おそらくニコニコで最も有意義な仕事なのではないか。

6月に入って終戦工作編を見だすと沖縄の島田叡と荒井退造の二人を追いかけざるを得ない心境になっていた。近衛文麿,東条英機,武藤章,松岡洋右,米内光政,山本五十六らの所業の挙げ句を,沖縄の人間が血で贖う様はなんとも苦い有り様。それは沖縄人は日本人に一つ距離を置くのは致し方ない過去の記憶があるわけだ。

6月25日の夜に見だした僕は最新話を26日との日を跨ぐ形で見入っていた。ガンスリンガー・ガールの件でも白状したが,人の親として子供が死ぬ場面はキツイ。島田と荒井の二人の対話と最後を見届けた後の「沖縄県民斯ク戦ヘリ」の文言を読むに至り,深くため息を吐く。

あんまり,政治的な発言はしたくはないのだけど,沖縄の人たちには本当不幸になって欲しくはない。歴史的にもう十分,悲劇を背負ったし。だけど,沖縄という場所が,どうしても基地抜きに平和を保ちにくいと思うんだよね。たとえアメリカと日本が去っても,中国が進駐してこない保証はないしね。琉球自治政府って経済基盤はどうするんだ?紙幣は何処が刷る?日本だから反対テモもできるわけで。香港みたいになっても,幸せになれるんか?根本的な解決ができないなら次善の策で。まだマシなほうを選択しないと。次善を憎んで最悪の愚を引き出してしまっては,後悔先に立たずと思うのです。

本土の田舎者の浅知恵ですが。

eieven氏は第二子誕生のこと。たいへんおめでとうございます。更新期間が長くなるとのことだが,それはしかたないこと。なにより,仕事と家庭と子育てを抱えているパパ投稿者と知ってマスマス応援したくなった。世のお父さんというのは,仕事で戦い,家庭で妻を支え,子育てで未来を創るんだよな。

自分なんか子育てしてて,最初のプログから7年も経ってから,また書き出した。最優先しないといけないことは,やらないといけないし。でも,忙しいからといって,やりたいことを出来ませんでした,と泣き言は言いたくなかったしね。



ピンチのときには、だいたいこの場面の台詞が脳内に浮かぶ。

 7月4日から5日にかけての午前0時も,仕事でぎりぎりのせめぎ合いを久し振りに乗り超えた。一日中苦手の人と組んで仕事を進め,翌日には首が廻らなくなっていたが,妻には寝違え,と答えて出勤。もう,山は超えてたし,消化試合な一日だった。こんな日は長風呂の後、酒吞みながら録画していた朝ドラの若い女の子の演技を観ながらホッコリするに限る。

 

パノラマ太陽系 面白かったですよね

もう大人になってからのこと。父と喧嘩のとき,僕が横柄だったのか、
「お前は天皇かー」
と怒鳴り返された。

 さて,天王星の話である。太陽系第7惑星で,3番目に大きい。発見が1781年の3月13日,イギリスのウィリアム・ハーシェル。ちょっとまて。1781年といえば鬼平こと長谷川平蔵江戸城西の丸で勤め始め,六年後に火付け盗賊改役になる時代だ。アメリカでは独立戦争の真っ只中。中国は清の乾隆帝だから最盛期か。

 太陽系の中心から遥か彼方,地球と太陽の距離の約19倍に離れて真っ暗な空間をボンヤリと公転している。ちなみに木星は約5倍。土星は約9・5倍ね。しかも,自転軸が約98°傾いているのである。変わっているといえば変わっているのだが,木星土星程の目立った特徴も無い,ただの白いスノーボールなので,それほど注目を集めるようなものでも無い。
そうした変人だが,目立たずに常に中心から離れたところを静かにうろついているところか自分に似ていると思うのだ。

 パノラマ太陽系
 1980年8月11日月曜日から16日土曜日までの六回 19・30-20・00
解説に東京大学助手(当時)松井秀典氏。再放送は1982年。
八神純子のMr.ブルーは番組をただの科学解説ものから,劇的な宇宙ロマンの物語に昇華させる役割を果たしていた。あのピアノから始まるテーマに感慨深い思いを抱く方も多いのではないだろうか。

 この番組は月曜は月の成り立ちとアポロ計画。火曜はアメリカのマリナー4号とソ連マルス3号の探索合戦ののち,アメリカのバイキング1号の火星表面の写真を紹介。火星の人面岩もバイキング1号の撮影。東西冷戦の宇宙版とは,当時の世相でもあった。まさかソ連が無くなるなんて思わなかったものね。水曜はアメリカのマリナー10号の探査結果のあと,尺あまりだったのか,太陽系の成り立ちを紹介してたと思う。木星回では,アメリカのボイジャー一号と二号の観測成果を紹介。衛生イオの火山活動は写真とアニメで紹介された。金星回はソ連のベネラ計画が紹介され,厚い大気の気圧と460°に達する灼熱地獄を突破せんとする探査機の通信途絶の苦難とベネラ9号での金星地表の撮影画面を紹介。そして土星回は,来る翌年のボイジャー二号の土星到達を期待させる終わりかただったと思う。

 ちなみに,ボイジャー二号の木星到達が1979年7月9日。土星到達が1981年8月25日。天王星が1986年1月24日。海王星が1989年8月25日。天王星海王星の観測成果も番組があったと記憶している。

 小学生だったが目を輝かせて脳裏に映像を刻み込んだ。なにしろ当時はビデオが家にまだ無かったから,再放送が無い限り,見逃したらそれで終わりだった。気づくと火曜日,悪いときには水曜日になってから放映を見つけるため,当時は,ついに月曜日に何が放映されていたかわからなかった。当時は(太陽かな?)と推理していたが,違ったんだね。

 全編にわたってアニメのハーモニー処理や模型特撮の再現映像が入り,CG登場以前の造りなのが懐かしい。土曜のラストでは緑や黄色に加工された波打ち際の映像があの歌とともに流され,地球讃歌の作りとなっていたように覚えているが,you tubeでも土星の回は無く,遂に見届けることが叶わなかった。